なぜこれほどまでに人々の心を捉えて離さないのか,魂のピアニストと呼ばれるフジコ・ヘミングさん。日本人のピアニストの母とスウェーデン人で画家の父を持ち,高齢になった今もピアノを愛し,感動を与え続けています。
生い立ちや年齢,エピソードや名言,愛猫などを調査し、魅力を探ってみました。
フジコ・ヘミングさんの現在の年齢は?
89歳 (1932年12月5日)です。
プロフィールを調べてみました。
フジコ・ヘミングさんのプロフィール
- 生年月日:1932年12月5日(2021年現在・89歳)
- 国籍:スウェーデン(長い間、無国籍の状態が続いたといわれている)
- 出生名 :ゲオルギー・ヘミング・イングリット・フジコ(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko)
- 学歴 :東京藝術大学卒業(とうきょうげいじゅつだいがく)、ベルリン国立音楽学校卒業
- ジャンル :クラシック
- 職業 :ピアニスト
- 活動期間 :1950年~(18歳~)
- レーベル :ダギーレーベル
- 公式サイト :フジコ・ヘミング オフィシャルサイト
- 家族:父、母、弟、本人の4人家族
父親はロシア系スウェーデン人で、画家・建築家である、ヨスタ・ゲオルギー・ヘミングさん。
昭和12年7月、日中戦争が始まり、外国人であるジョスタは警察から監視されるようになった。投網子は警察官に猛烈に抗議したということだった。当時の内務省警保局は外国人の状況を徹底的に調べていた。昭和13年、ジョスタは妻と2人の子を残してスウェーデンに帰国し、日本に戻ることなく1986年に死去した。
ファミリーヒストリー
「フジコ・ヘミング〜母の執念 魂のピアニスト誕生〜」
母親は日本人で、東京藝術大学卒業で、ベルリンに留学していたピアニストの大月投網子(おおつきとあこ)さん。
明治36年、大月投網子は大阪の中津に生まれた。裕福な大月家にはピアノがあり、幼い頃から慣れ親しんでいた。明治時代、大阪に暮らす個人宅で高価なピアノを所有していたのは20人から30人程度と言われている。投網子は竹を割ったような性格で、思ったことは何でも言う女性に成長した。
ファミリーヒストリー
「フジコ・ヘミング〜母の執念 魂のピアニスト誕生〜」
フジコ・ヘミングさんの経歴
フジコ・ヘミングさんは、ドイツ・ベルリンで生まれ、日本とヨーロッパ・アメリカで活躍するピアニストとして、現在も現役で活動されています。
フジコさん5歳、弟さん3歳の時、家族で日本に帰国するも、第二次世界大戦が始まる前に父親は当時の日本に馴染めず、半ば強制送還され、1人スウェーデンに帰国したということです。
その後、母親一人で働いて2人を育て、フジコさんは幼少から母親の厳しいスパルタ式のピアノの指導を受けて育ちました。
フジコさんは、トラウマになるくらい辛かったが、後にベルリンに留学でき、ピアノで食べていけるようになって、母親にたいへん感謝されています。
フジコ・ヘミングさんの日本時代
小学校3年生の時にラジオに生出演し、天才少女と騒がれ、1945年2月、家族と共に東京から岡山に疎開し、同年4月、岡山県の高等女学校に入学し、そのまま学徒動員(第二次世界大戦末期、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員された)。
終戦後、東京都の青山学院高等女学部(現:青山学院中等部)に転校。青山学院高等部3年に進級し、高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たします。
東京藝術大学(とうきょうげいじゅつだいがく)へ入学し、卒業後、本格的な音楽活動に入り、日本フィルハーモニー交響楽団など多数のオーケストラと共演。
しかし、かねてよりピアノ留学を望んでいたが、パスポート申請時に無国籍であったことがここで発覚。
そして1961年に、駐日ドイツ大使の助力により、赤十字に認定された難民として国立ベルリン音楽大学(現:ベルリン芸術大学)へ留学を果たしました。
フジコ・ヘミングさんのヨーロッパ時代
卒業後もヨーロッパで音楽活動を続けていましたが、母からのわずかな仕送りと奨学金で、生活は大変貧しく苦しい状況が長らく続いたとされ、さらに難民という差別的な扱いも受けていたとされます。
フジコさんは当時のことを「この地球上に私の居場所はどこにもない・・・天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたと話しています。
戦中、戦後の時代にハーフのフジコさんは、多数のいじめがあったと言われていますが、弟さんとは仲良く、絆も深かったと思われます。
フジコ・ヘミングさんの肉親
俳優の大月ウルフ(おおつき ウルフ)さんという方が実弟で、1934年8月27日生まれでフジコさんとは2歳ちがい。2020年8月、お亡くなりになっていました。
大月ウルフさんの本名は、ウルフ・ゲオルギー=ヘミング(Ulf Georgii-Hemming)、日本名は大月 良雄(おおつき よしお)。青山学院大学卒業。以前は国際プロ、劇団三期会、東京俳優生活協同組合に所属されていました。
歌手の橋本潮(はしもと うしお、1965年9月22日~)さんは、日本のアニメソング・キッズソングを中心とする女性歌手で、従姪(いとこめい)・・・フジコさんのいとこの子にあたるということです。
そういえば、フジコ・ヘミングさんの母親の大月投網子(おおつき とあこ)さんのお顔にどこか似ているような気がします。
続・フジコ・ヘミングさんのヨーロッパ時代
オーストリア・ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ=スコダ(ウィーン三羽鳥といわれる有名なピアニスト)に学ばれているということです。
また、作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナ(イタリア)に才能を認められ、彼のソリスト(フランス)soliste(ソリスト)とは、独唱者、独奏者のこと)として契約。
しかし、その矢先、リサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に暖房をつけることができなかったためとしている)、両耳の聴力を失うというアクシデントに見舞われます。
やっとの思いで掴んだ大きなチャンスを逃すという不運に襲われ、演奏家としてのキャリアを一時中断しざるおえなくなります。
失意の中、スウェーデン・ストックホルムに移住し、耳の治療と(2年ほどで回復)、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続けられます。
現在、左耳は40%回復しているといわれています。
フジコ・ヘミングさん日本に帰国
母親の、とあこさんが90歳で亡くなり、2年後の1995年、フジコさん(63歳)は長年のヨーロッパ生活に終止符を打ち、日本に帰国し、母親が残してくれた東京都・下北沢の家で猫数匹と暮らすようになりました。
そして、母校、東京藝大の旧:奏楽堂などでコンサート活動を行ったりして生計を立てていました。
1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大反響を呼び、フジコブーム(当時67歳)が起こり、ブレイクしました。
その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、発売後3ヶ月で30万枚のセールスを記録し、日本のクラシック界では異例の大ヒット、驚異的と言われています。
第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞しました。
2001年(フジコさん・69歳)6月7日にはカーネギー・ホール(アメリカ)でのリサイタルを始め、現在(フジコさん・89歳)のソロ活動、海外の有名オーケストラ、室内楽奏者との共演と活躍は続いています。
2013年(フジコさん・81歳)に自身のCDレーベル「ダギーレーベル」を発足されています。
フジコさんは時々立ち寄っていた自宅近くの教会で、置かれていた冊子を手にとったところ、「遅くなっても、待っておれ それは必ず来る」という言葉に出会ったそうです。
「運命の神様はいつやってくるかは誰にもわかりません。いつ来られてもいいように、いつでも準備をしておかなくては・・・」とフジコ・ヘミングさんは自分に言い聞かせていたといいます。
80代となった今も会場は常に満員で、昨年行ったコンサートは国内外で62を数える・・・
母も大変な思いをして仕送りをしてくれたのだと、いまは感謝の気持ちでいっぱいです。口が悪く、私は悪口ばかりいわれていたため、子どものころは母に対していい印象は持てなかったのですが、いまはその苦労がよくわかります。
お母さん、本当はいま一番演奏を聴いてほしいのは、あなたです。
きっといっさいほめることなく、ボロクソにいわれるでしょうが、それでもいいのです。
私が世界の舞台でピアノを演奏している姿を、見てほしいんです。
・・・
フジコ・ヘミング著『たどりつく力』
運命の扉は重いほど中が明るい・・・。ベートーベン同様、音を失った苦悩のピアニスト、フジコ・へミングが今、私たちに伝えたいこととは・・・。
「これから正直に私の人生を綴りたいと思います」と淡々と言われる魂のピアニスト、フジコ・ヘミングさんを世界は見出し、現在89歳でもピアニストとして活動されています。
戦争、貧しさ、いじめ、そして聴力の喪失と絶望と幾多の困難を乗り越え、それでもピアノを弾き続けたフジコ・ヘミングさん。人生を通して私たちに伝える、運命の扉を開くたどりつく力とは。
不遇な時代を乗り越えて、それでもピアノを弾き続けた奇跡のピアニスト。
1999年、そんなフジコ・ヘミングさんを取り上げ『フジコ~あるピアニストの軌跡~』(NHK)が放送されたことがきっかけでブレイク。多くの苦難を乗り越えたフジコの演奏は視聴者の魂を揺さぶり、大反響を巻き起こしました。
「うまくいかないほうが当たり前」「じぶんらしく生きる」という、偉才ならではの人生観や死生観、生活観に迫った気持ちが軽くなり、前向きになれるエッセイ。
何度も読み返したくなります。
NHKの人気番組『ファミリーヒストリー』でも「フジコ・ヘミング~母の執念、魂のピアニスト誕生~」を放映され、大反響で感動を呼びました。
「なにかを始めて、これで成功しようなんて思っているときは、ぜんぜん成功しない。どうしてダメなんだって、ジタバタしながら思う・・・それは自分の才能とは関係がない・・・天に運命を支配されているのだと思う。」
運命の時がいつ訪れてもいいように、日頃から準備しておかなければ・・・これでもかと不運の時代を突きつけられ、それでもピアノを捨てなかったフジコ・ヘミングさん。
ありのままの自分を生きるフジコさんの言葉の表現は、素朴ですが前を向かせてくれるのです。何度も読み返したくなります。
フジコ・ヘミングさんは愛猫家、動物愛護者
「今は、20匹の猫のために演奏しているの・・・」と言われるフジコさん。
「東京のこの家にいる20匹の猫たちに餌をあげるため。最初に私が拾ってきた猫はもうみんな歳をとって死んでしまったけど、猫シッターさんがまたあちこちからもらってくるのよ。」
と保護猫と暮らす、世界で活躍しているフジコさんは、毎日3時間はピアノの練習を欠かさないとか。
「うちにいるのは、《出来損ないの猫》ばっかり。きっと人間にいじめられたんでしょうね。お客さんが来ると、ほら、姿を見せないでしょう? 」
「この猫たちを食べさせていくことが、私の生き甲斐。自分の食べ物を買うためじゃなくて、自分以外の可哀想な生き物を助けるために生きているところはあるわね。」と嬉しそうに話されているように思いました。
寄付やチャリティーコンサートも
米国同時多発テロやアフガニスタン難民のために、印税やコンサートの出演料を寄付したり、震災被災者支援、被災動物支援のためのチャリティーコンサートの活動もされています。
フジコ・ヘミングさんの恋の話
フジコさんいわく、若い時から惚れっぽくて、すぐに恋をしてしまうタイプだそうで、苦労もされたそうです。
「ほかに恋人がいるドイツ人の男に騙されて、有り金全部に、アパートまで取られたことだってある。でも私は、ああ、もうこいつはダメだなと思ったらすぐに身を引くの・・・」だそうで、あっけらかんと話されて、エピソードで記憶に残っているのですね(^o^)
現在も恋人はおられるそうで、「今の恋人は、近くにいるし毎日会えるから、楽しいですよ。尊敬できる人だし、お互い猫が好きで、いろんな話をするわ。」
「私は好きな人と一緒にいたら幸せ。だけど、依存しすぎることはないわね。スウェーデン人の父の血が入っているでしょう。スウェーデン人は孤独を愛するの。私も一人の時間が絶対に必要。絵を描いたり考え事をしたりね。・・・」
幸せそうに、楽しそうに、話をされていました。いくつになっても恋をしたいですね(^o^)若さの秘訣ではないでしょうか。
ちなみに、結婚は一度もされていないご様子です。
高齢になっても、自由自在にピアノが弾けるなんて、すごいです(゚д゚)!ピアノは打楽器ともいわれていて、体力も使う楽器の演奏ですね。
絵を描く趣味も持っておいでで、お体に気をつけてくださいませm(_ _)m
今回のまとめ
フジコ・ヘミングさんは日本人のピアニストの母と、画家で建築家の父との間に生まれ、不遇な時代をピアノとともに生き抜き、89歳の現在も世界で活躍するピアニストです。
「実力がないのに自分を高く見せたり、他人の評価を求めすぎたりせず、自分がやるべきことを信じて続けるしかないんじゃないかしら。」
「人生はそんなに簡単にはうまくいかないものですよ。私だって、60代になってからのデビューですからね。」と89歳でなお活躍されるフジコ・ヘミングさんは、若い人々からの声援やファンも多く、私たちに勇気を惜しみなく与えてくださっていました。
最後までご覧いただきありがとうございます。
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